昭和56(1981)年12月、飯綱リゾートスキー場、爆誕
以前の飯綱町の道の歴史を調べる記事で、昔の地図を年代毎に見ていると、道路以外にも霊仙寺湖などができた様子が分かりましたが、一つ大事なものを忘れていました。「飯綱リゾートスキー場」です。現在は「いいづなリゾート」とひらがな表記ですね。以下、昔話ということで当時の「飯綱リゾート」という名称を使います。
スキー場のオープンは昭和56(1981)年12月ですが、昭和56(1981)年版の地図には載っていませんでした(さすがに12月では無理ですか。スキー場の開発自体はもっと前からしていたでしょうが)。なので以下、昭和56(1981)年の地図と、少し飛びますが平成6(1994)年の地図の比較を示します。ちなみに飯綱山周辺を含む範囲なので戸隠スキー場や(旧)飯綱(高原)スキー場も見られます。それらは飯綱リゾートスキー場より以前から存在することがこの地図からも分かります。
| 昭和56 (1981)年 |
|
|---|---|
| 平成6 (1994)年 |
※地図左側の年の部分をクリックするとクリックした年の地図に入れ替わります。
この地図でもわかるようにオープン当初は「国設」飯綱リゾートスキー場という名前でした。まあ国設と言っても別に国の予算で建設されたわけではなく、単にスキー場のエリアが国立公園にかかっているとかそういう意味だったと思います。当時の開発・運営は長野県・旧牟礼村・東急の傘下にあった白馬観光開発(第三セクター方式)、ですかね。
ちなみに冒頭の画像ですが…
飯綱リゾートの記念オレンジカード(鉄道の切符購入用のプリペイドカード)ですね。こんなものがあったという。1987年ということでJRでなくまだ「国鉄」なんですよね。時代を感じさせます。

地元のスキーヤーにとっては朗報だったはず
飯綱リゾートスキー場ができる前は、この地域で本格的なスキー場というと黒姫高原スキー場だけ1(あと伊勢見山も)でした。あと長野市側の飯綱(高原)スキー場もありましたが飯綱町あたりからだと少し遠いですよね。斑尾は山としては遠くないですがスキー場(斑尾高原スキー場)のある斜面は飯綱町からは裏側になる、妙高市(旧妙高高原町)ないし飯山市の側で、だいぶ遠いです2。
それらに比べると飯綱リゾートはかなり近くなり、飯綱町(当時は牟礼村、三水村)のスキーヤーにとっては朗報だったでしょう。飯綱町以外、例えば長野市の人とか信濃町の人にとってもスキー場の選択肢が増えることは良かったはずです。
飯綱町から路線バス1本で行けるスキー場
スキーというスポーツは割と道具が多いせいもあり、車で行くことも少なくないと思いますが、飯綱リゾートに関しては飯綱町からは長電バスの飯綱温泉行きの路線3で「上村」バス停まで行き、そこから徒歩でゲレンデまで行く(割と距離はありますが4)ことが可能です。
地元の子供などはこの路線バスでスキー場まで行ったりしていたようです。
強者になるとスキーウェアを着てスキー靴のままバスに乗っていたような。ある意味最小の荷物で、現地に着いたら即スキー可能ですね。

昔、駅前によくあった英会話学校のCMで「駅前留学」という宣伝をしていましたが、さしずめこれは「バス停前スキー」ですよね、って違うか。でもそうやって手軽にスキーに行けた結果スキーが上達した子供もいたようで、あながち誇張ではないという話も。
リフトのあるスキー場としては、二世代目のグループ
個人的に、なんとなくスキー場の歴史みたいなものを調べたりしていますが、リフトのあるスキー場5としては、二世代目のグループと言いますか。
どういうことかというと、昭和40年代前半にリフトのあるスキー場が各地で作られ、これが一世代目と言えます。この地域だと戸隠や黒姫高原、あとかつての飯綱高原スキー場などはこの年代です。それは上で示した年代毎の地図でもわかります。
その後オイルショック等で一旦日本の景気が落ち込み、また回復してきた昭和50年代に新たにスキー場が作られ始めたようです。これが二世代目と言えるでしょう。飯綱リゾートはこちらの世代に入ります。
二世代目ということで、一世代目にはなかった要素などが盛り込まれるようになったようです。以下、個人的に気になった特徴を述べてみたいと思います。
「リゾート」という名前が物語るもの
スキー場の名前はゲレンデのある山の名前のことが多いですが、そこに「リゾート」という単語が付いたものはあまりなかったですよね。
一つには当時既にあった長野市側の飯綱高原スキー場と区別する意味があったのかもしれません。山で言ったら隣ですからね。スキー場の名前としては、山の名前を細かな違いをあらわした「霊仙寺(山)スキー場」とかは可能だったかもしれません。ただ「飯綱」と「霊仙寺」を比較した場合、「霊仙寺」の認知度は少なくとも当時はあまり高くなかったと思われ、採用はされなかったかもしれないですね。
余談ですが「飯綱」の方に関しては「飯綱大権現」などの名称が実はどうやら地味にほぼ全国区のようなのですが… これはいつか別の記事で取り上げてみたいと思います。
もう一つには、飯綱山(霊仙寺山)山麓の観光開発、リゾート地開発の一つの核とした位置付けのようなものもあったようです。
飯綱町から戸隠方面に向かう道路に「リゾートライン」という名前が付いています。なんとなく、長野市から戸隠へ向かう観光道路「バードライン」をなぞらえている感じがありますが、この名前からしてもあの地域を「リゾート」として捉える流れがあったように思います。

あと、1980年代ぐらいには、それまで「観光地」や「保養地」と言っていたのが、少しお洒落な感じをイメージした「リゾート」という名前に変わっていった印象があります。その当時にできたこのスキー場も、そういうイメージの延長を期待されていたのかもしれません。
話は飛びますが、少し前に「シティポップ」と呼ばれる1980年代頃の音楽の再ブームがありましたが、曲を聞き直してみるとリゾート地での出来事、みたいな歌詞も割とあり、当時の雰囲気を伝えているような感じがしました。
それにしても、リゾートという言葉は今でも割と通用する気がするので、よかったですね。得てして、ある特定の時代に流行していた言葉などを使うとしばらく経ってそれが古臭く感じられたり、あるいはその言葉がほぼ死語になったりすることがありますよね。
そう言えば現在とは異なる試みがあったような
今思い出せば、当時のスキー場としては、スキー場の名前以外にもお洒落感的(このブログでお洒落とかいう単語を出すのもあれですが)なものを演出する試みがあった印象です。それを以下に述べてみたいと思います。
各種名称がフランス語
半分記憶で書いていますが、確かリフトには「ポム」「ローズ」「ミュゲ」「ブロウ」「ポア6」、コースには「フォレ」「パノラマ」「リュミエール」「アヴァンチュール」「ソレーユ」「ファミーユ」といった名前が付いていました。それぞれフランス語の単語です。例えば「ポム」は「りんご」ですね。これは飯綱町の特産を踏まえたのかな?
しかしフランス語だったのは何故? フランスのリゾート地をイメージしたということでしょうか? 当時のスキー場だと「唐松コース」みたいな和風なものが多かったイメージです。商業施設だと、特に80年代ぐらいにできたものには、「ラフォーレ」だとか「パルコ」だとかフランス語あるいはイタリア語のような名称のものが割とあるような気もしますが、あるいはそういう流れだったでしょうか。
コース名に関しては、ファミーユ → ファミリー、ソレーユ → サンシャイン等、類似の英語名に受け継がれた感じですかね。ちなみに「ゲレンデ」はドイツ語由来7なので色々混ざってるという話も。

リフト
オープン当初は全てシングル(一人乗り)リフトだったと思います。それが5本。今はリフトの本数自体は減りましたが、クアッド(4人乗り高速)リフトになったりしてますよね。
リフトの施設・支柱などはダークブラウンで統一されていて、リフトの支柱などもシンプルなデザインです(今も8)。雪山の景色にマッチしますよね。

これも当時の標準的なスキー場だと、無骨な鋼材組みで、赤茶色とか水色とか緑色とか、かつて鉄橋などの鉄製構造物でよく使われていた色だった気がします。いかにも「索道」という言葉が合う感じです。
ちなみに「索道(さくどう)」というのはリフトも含めロープウェイなど、山の斜面にワイヤーを張ってそこにぶら下げた「搬器(はんき)」(リフトの場合、人を乗せるあの部分)で人や物を運ぶもの、の一般名称です。昭和前半の日本だと、今よりはるかに林業が盛んで、山から切り出した木材を運ぶ施設として「索道」という言葉が使われていたようです。

リフト券
お洒落というのとは少し違うかもしれませんが、リフト券が、当時としては新しい感熱マーキング方式のカードでした。オレンジ色のカードで、例えば回数券だとリフト乗り場にあるカードリーダーに通すことで金額の消費分のマークが付くようになっていました。他のスキー場だとまだまだ紙の券が主流だったと思います。一日券が2500円ぐらいだった記憶があります。安い、のかな。当時LPレコードが2800円9とか。

レストハウス
ゲレンデ麓のレストハウスの食事の施設としては確か1階にラーメン屋があり一杯500円ぐらい10で、2階が「シャンクレール」というカフェテリア形式のレストランでした。今は「リバティーベル」ですか。念のため、カフェテリアというのは調理された料理が並べられていてそれを自分のトレイに取って最後にレジで会計するタイプのレストランのことですね。
ちなみにシャンクレールというのはフランス語で、Champs (田舎、畑)Claire (明るい)ですかね。喫茶店やレストラン等の名前で見かけたことがある気がします。おっとそういえば現在少し似た語感の「サンクゼール」というワイナリーが飯綱町にありますね。こちらは造語のようですが。
当時、カフェテリア形式のレストランはまだまだ少なかったと思います。当時のスキー場で食事というと、ドライブイン11の食堂で出てきそうな、うどん、ラーメン、カレーといったものを、まず食券を買って、料理を受け取るために並ぶ、みたいな感じが多かったような気がします。

あと、中間部のレストハウスの名前はコートドール? こちらは個人的に利用頻度が低かったので(食事は麓に降りてしていました)記憶がさらに薄いです、すみません。なおフランス語で Côte-d’Or は「黄金の丘」という意味ですね。Côte de l’Or と解釈した場合は現在のガーナあたりの海岸のかつての呼び名「黄金海岸」12ですが、そちらではないでしょうね、やはり。
その他
麓に確か鐘の付いた時計台があり、名前はこれもフランス語の「リベルテ」という名前だったと思います。現在は「リバティーベル」というのが名前を引き継いだ感じですかね。
これに限らずフランス語から英語の名前に今はなっていますね。元々飯綱リゾートをプロデュース(?)していた会社等も変わったりして、そこら辺の方針も変わった感じですかね。
なお、プラザオーロラはスキー場オープン当時はまだありませんでした。

その他2
スキー場がオープンした80年代頃は昨今と比べて冬にはもっと雪が降っていました。今はだいぶ減り、スキー場としては死活問題ですよね。気温さえ低ければ現在はスノーマシンを使うのでしょうが、コスト的な問題もあります。あとやはり雪質が。

まとめ
ふと、昔の飯綱リゾートスキー場ってどんな感じだったっけ、と思いネットで検索したりしてみましたが、あまり情報がなかったので、自分の記憶をたどってみたり、文献を調べてみたりしてみました。
というわけで、飯綱リゾートスキー場ができたことは地元民、特にスキー好きの人にとってはすごく朗報でした。あと、オープン当時から色々と意欲的な取り組みが行われていたと思います。そのせいもあり、当時は全国紙のスキー情報誌などに取り上げられることも少なくなかったように記憶しています。
いいづなリゾートスキー場、私なぞはただの一利用者としてたまにスキーをしに行って面白がっていたに過ぎませんが、その経営に関しては様々な困難があったと伺っています。スキーブーム以降、日本中で沢山のスキー場が閉鎖されてきた中で、今までよくぞ存続して、ありがたいなと思います。
脚注
- そういえば黒姫も、かつては確か黒姫山に向かって左側は「前山」と呼ばれて一応別のスキー場で(リフト券は共通)、農協の「保養センター」という施設がありましたよね。 ↩︎
- その後信濃町側にできたのがタングラムですね。 ↩︎
- 今は定時定路線は減り、飯綱町のコミュニティバス(iバス)ができたり、状況が変わっています… ↩︎
- あくまでも個人的な印象ですが、バス停もあれですが宿泊施設もいわゆるペンション村の辺りはゲレンデから離れていて、スキー場にもう少し近づけるみたいな話はなかったのかなと。 ↩︎
- 当然ながらというか、元々は自分の足で登って降りるのがスキーだったわけです。 ↩︎
- 確かこれが一番上のリフト。余談ですが、かつて某宗教団体の用語で「ポアする」というのがありましたが、その言葉を初めて聞いた時、私個人は飯綱リゾートの事を思い出していたのでした。 ↩︎
- フランス語だと斜面は Piste で発音は「ピスト」。でこれがドイツ語読みされて「ピステ」、これはたまに使いますよね。「ゲレンデ」は本来のドイツ語ではあまり使わないそう。 ↩︎
- 施設的には更新されていない… かな ↩︎
- LPレコードは昨今のCDアルバムに相当。あまり変わってない?(サブスクは置いといて)。時代を経て価格がだいぶ上がったものとそうでもないものがありますね。 ↩︎
- 今と比べれば1/2ぐらいではありますが、ま、観光地風なお値段というのは今も昔も… ↩︎
- もしかして「ドライブイン」という言葉・施設は死語になりつつあるかも? ↩︎
- 他にも「象牙海岸」とかありますよね。〇〇海岸の〇〇の部分が当時の交易品を示します。象牙海岸の方はフランスの領地だったため Côte-d’Ivoire コートジボワールと呼ばれますが、黄金海岸のあった現在のガーナの辺はフランス領であったことがないので、フランス語の表記では普通呼ばないようです。(って飯綱リゾート全然関係ないです) ↩︎

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