鉄道は、碓氷峠に次ぐ難所をどう克服したか:それはある種の戦争だった?

長野県飯綱町小玉の坂(小玉坂)は、碓氷峠に次ぐ難所だそうです

信濃町落影地区の記事で、かつての北国街道は現在の国道18号とは道筋が異なる、と言うことを書きました。
この、飯綱町小玉から北へ向かう古い山道に関して、いくつかの文献やネット上の紹介等で「かつての北国街道および中山道では碓氷峠に次ぐ難所であった」と指摘しているものがあります。
これがどこまで広く受け入れられているのか(本当に二番目にきついと言っていいのか)わかりませんが、少なくともかなりの坂であることは確かだと思います。(ちなみに碓氷峠は標高差が500メートル以上もあり、小玉の坂も含め、そんじょそこらの峠とはレベルが全然違う難所です)
また、同様の文献で、この坂に関して「小玉坂」と言う名前が出てくるので、このブログでも以降は「小玉坂」の名称で呼びたいと思います。
さらに、国道18号ができた後もしばらくは「七曲」と呼ばれる、7つのカーブで越さなければならない難所があったことを、「七曲の謎」の記事で書きました。

道路が難所であれば、鉄道にも当然難所である

さて、以前の記事で話題にしてきたことは全て徒歩あるいは車の道に関してであり、もう一つの重要な交通手段のことを話題に上げていませんでした。そうです、「鉄道」です。飯綱町には旧JR信越本線、現しなの鉄道が通っています。
言うまでもなく、道路だけでなく鉄道も、長野から新潟へほぼ同じルートで交通を提供しており、この小玉坂を完全スルー、と言うわけにはいかないはずです。

鉄道にとって坂は敵、敵との戦い

鉄道に関して一つ重要なことがあります。「坂にめっぽう弱い」ということです。

坂に弱い理由その1: 滑りやすい
線路と鉄の車輪の組み合わせは、転がり抵抗を著しく低下させる人類の発明ですが、転がり抵抗が小さいと言うことは滑りやすいということでもあります。実際、自動車の道と比べるとそれほど急でない上り坂であっても、車輪が簡単にスリップしてしまいます。逆にそれが下り坂だったら車輪が滑ってブレーキが効かず、最悪暴走です。

坂に弱い理由その2: 小回りが効かない
電車はその構造上、小回りが効きません。これは子供の頃にオモチャの電車で遊んだことがあれば明快でしょう。その場で小さくクルクル回るようなレールは無理(というかそういうレールのパーツがない)で、特に何両も連結している列車ほど無理です。大きな半径のカーブで回る必要があります。
この性質により、坂を上るのはさらに不利になります。車のようにグネグネ道(九十九折)で坂を上る、ということが簡単でないからです。
どうしてもという場合は、グネグネの道の代わりに、坂を斜め横に行ったり来たりする、いわゆる「スイッチバック」という方法があるにはあります。ただこれもスイッチバックの外側の部分に列車を一旦引き込む十分な場所が必要だったりして、なかなか大変です。

これら「滑りやすい」「小回りが効かない」のコンボにより、鉄道で坂を越えるのが容易でないことがわかります。鉄道は、できるだけ勾配を避け、直線か緩やかなカーブで線路を敷かなければなりません。そのため、道路に比べ橋、トンネル、築堤といったものがより必要な傾向がありますし、日本に鉄道ができた明治の頃の、土木技術がまだ未熟だった頃からそれらの構造物の建設が比較的に行われてきた経緯があります。

碓氷峠の鉄道は、いわば坑道戦である

ここで少しだけ、皆さんご存知碓氷峠の話です。
碓氷峠に関して、長野県民なら誰でも知っていると言われるフレーズ、「穿(うが)つ隧道(トンネル)二十六」。ざっくり「非常に厳しい峠で、トンネルを26箇所も造らなければ越えられなかった」と言うわけです。
確かにすごいですが、あまり注目されてないかもしれないポイントが一つあります。それは、あくまでも鉄道に限った話であると言うことです。道路であれば、かろうじて九十九折の道を造り、トンネルは無しでなんとかなっています。上で書いたように、鉄道が坂にとても弱いという部分を何とかするために、沢山のトンネルが必要だったのです。

私などは、これを「坑道戦」に例えてみたくなります。坑道戦とは、戦争で敵の陣地を攻める際、真正面からでは敵の攻撃が強くて無理、という場合に地下にトンネルを掘って敵からの攻撃を避けて攻撃する、という方法です。
十分な攻撃力と防御力があれば真正面から戦うという方法もありなのですから、坂に弱くてトンネルが必要である、という鉄道の方法に例えてみたくなるのでした。そうです、碓氷峠をトンネルで越えたのはいわば「坑道戦」である、と言っていいのではないでしょうか。

飯綱町の鉄道は、いわば…

ここでようやく飯綱町を走る鉄道の話になります。あらてめて、鉄道が小玉坂をどう克服したかを地図で見てみましょう。それには河岸段丘の話で使った、地形を強調表示できる「赤色立体地形図」が役に立ちます。ではそれを以下に示します。さてどうでしょう:

わかりますでしょうか、鉄道がやったことは小玉坂は通らずに(というか、上で書いたように坂に弱いので無理)、その横で「谷をひたすら潜ってやり過ごした」のでした! この「谷」とは「飯綱町にある河岸段丘?」の話で書いた鳥居川が生成した谷です。

川というのは山を削ってくれますし、川沿いの土地は、川と平行な方向の勾配が安定していて(山奥だと滝があったりするが)、一般的に道の経路としてありだったりします。実際、山道などでも川に沿ったところに作られやすいですね。
鉄道の飯綱町のこの部分では、お陰で小玉坂に直接対決を挑まずに難所を突破できています。「虎の威を借る狐」ならぬ「谷の威を借る鉄道」と言ったところでしょうか。

上で碓氷峠での鉄道を「坑道戦」になぞらえましたが、こちらの飯綱町を通る部分、小玉坂の部分はそれこそ「塹壕戦」と言いたくなります。戦争における戦法で、敵の攻撃をかわしながら接近するために、忍耐強くひたすら地面に溝を掘って進む「塹壕戦」というものがあります。塹壕戦は、第一次世界大戦の戦場でその悲惨さが知られていて、「西部戦線異状なし」「1917 命をかけた伝令」などの映画でも伺い知ることができます(これ以上の説明を加えるとあまりに脱線なので、興味の湧いた方は各自調べていただけますでしょうか)。

終わりに

さて、私の妄想はともかく、鉄道は「小玉坂を直接越えずにその横の鳥居川の谷に沿ってやり過ごす」という方法をとったことが改めて認識されたかと思います。
川の谷に沿って線路を作るというのも、例えば大雨が降ったら増水しますし、川の周りの崖が崩れやすいかもしれませんし、簡単ではないはずです。当時の鉄道技術者の、鉄道による坂越えの困難さと川沿いの線路の難点を踏まえた判断だったのではないでしょうか。

そういえば、かつて個人的にどこかで誰かから「牟礼駅のあたりの鉄道は長野駅あたりと違って単線でショボい」ということを聞かされたことがありますが、ここまで書いてきた話からすれば、鉄道が安定して通っている1だけでもありがたいと思いますし、このような鳥居川の谷を通る部分を複線化するのは大変そうでもあります。

  1. かつてのJR信越本線から第三セクターの「しなの鉄道」になってしまいましたが… そういう「安定」はここではおいておきます ↩︎

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