飯綱町にある岩崎観音について

飯綱町

地元では「岩崎観音のお祭り」で知られる

長野県飯綱町の牟礼駅からそれほど遠くないところ(鳥居川を挟んだ、国道18号線にほぼ沿った場所)に「岩崎観音」というお寺(正式には「円通院」というそうです)があります。

この地域では長らく「岩崎観音祭り」という行事を通して名前が知られていたと思います。
このお祭りの正式な名称は「岩崎観音四万八千日縁日」だそうです。毎年8月9日に行われます(行われていました1)。
「四万八千日縁日」(しまんはっせんにちえんにち)と、すごい数字が並んでいます。これは岩崎観音に限ったものではないのですが、「特定の日に参詣すると四万八千日分お参りしたのと同じことになる」、ということだそうです。1年365日として単純に計算すると約131年ですからものすごく有難い? とにかくそういうことだそうです。

子供の頃の私は、この祭りに関しては、観音からほど近い栄町周辺に出る露店にのみ興味があり、家で小遣いをもらって露店でおもちゃを買ったり食べ物を買ったりするだけで、岩崎観音そのものには正直なところほとんど注意を払っていませんでした。今思えば情けないですが、まあ子供だったということで…

岩崎観音の現在

そのような、個人的には主に子供の頃の記憶を通じて縁のある岩崎観音なのですが、現在、岩崎観音は「お寺仕舞い」されてしまったとのことです。ご事情がおありだとは思いますが、さみしいものがあります。

私が知りうる範囲で岩崎観音のことを振り返ってみたい

露店に興じてばかりで岩崎観音そのものに無関心だった子供の頃の自分への反省も含め、岩崎観音がどのようなお寺だったのかを私の知識の範囲で調べてみたいと思います。

岩崎観音の百観音

かつて(江戸時代の頃を想定してください)、岩崎観音の敷地には百観音、すなわち百体もの観音様が安置されていたそうです。ただ、あるとき大きな地震(善光寺地震)がありそのときに一部が崩れたり埋もれてしまったそうで、現在は八十体ほどの観音様が残っているそうです。
百体もの観音様、ということでお寺としては規模の大きい部類なのではないでしょうか。そしてそれをこの地域の方が参拝され、そのような形で上に述べたような縁日も行われたのではないかと想像します。

「三水村の石造文化財」という本によると、岩崎観音に建てられているこれらの観音様は

主に村内と近村の寄進であるが、遠く武州、阿州、越後から寄進されたものも見られる。

とのことです。同書にある、岩崎観音の百観音(の一部)の写真を引用します。

岩崎観音の百観音(一部)

他にはこのような石碑も:

「西國三拾三番札」、
もしかして「札所」と続く?

ところでなぜ「百」観音

この百という数字、およびそれだけの数の観音様を安置することに関してですが、日本百観音というものと関係があるようです。
これがどういうものなのかを箇条書きで説明しますと

  • 西国三十三所坂東三十三箇所秩父三十四箇所観音霊場があり、これらを巡礼する習わしがある。なお、これらを合計すると33+33+34=100箇所になり、それで「百観音」ですね。
  • これらの観音霊場を全て巡礼することは非常に有難いこととされた。ただ、それぞれの観音霊場は広い地域に分布しているので、江戸時代の、いたる所に関所があり、交通や宿泊も今のようには整備されていなかった昔に全ての観音霊場を巡礼をするのは大変なことであった。経済的にも大変であった。
  • そのようなわけで、これら百の観音を身近な寺社に勧請(かんじょう、神仏の分霊(分身)を他の場所へ招き、新たにお祀りすること。遠くの本社から、身近な場所(寺社・家庭)に神様や仏様を迎える神聖な行為)し、本来の百巡礼のせめてもの代わりとする習慣ができた。
  • 結果として、日本各地にこのような「百観音」(「百体観音」とも呼ばれる)ができた。

ということのようです。岩崎観音の百観音も、このような役割があったようです。上の画像にある石碑「西國三拾三番札」(→西国三十三番札)も、あくまでも巡礼地であるということですね。
もちろん本当の霊場を巡礼することに比べたら簡易ではありますが、上で引用したように一体一体の観音様は人々の寄進で建てられていますし、巡礼に対する当時の人々の意思が感じられます。

現在も日本各地に「百観音」ないし「百体観音」が残るお寺はありますが、比較的規模の大きいものが多い印象です。岩崎観音も、少なくとも信仰の対象としては同列に並ぶお寺だったのではないでしょうか。

岩崎観音にも江戸時代の算額が存在した

このブログの以前の記事では飯綱町に残る算額として牟礼神社のものを取り上げ、そこにある問題の解説などをしましたが、調べたところ岩崎観音にも算額が奉納されていたそうです。ただ、あるとき火災に見舞われて、算額は消失してしまったそうです。

算額を寺社に奉納するのは、算術の問題が解けたことの感謝とさらなる算術への邁進を神に祈願するのと同時に、寺社を参詣する人々に算額を見てもらうという意味もあり、自然とその地域で有名な寺社が選ばれる傾向があったようです。
私が知る限り、飯綱町に数ある寺社で現在算額がある、あるいはかつてあったのは牟礼神社と岩崎観音のみですので、ここからも岩崎観音のかつての位置付けがうかがわれます。

この、岩崎観音に存在した算額に関しては、いつか別の記事で紹介したいと思います。

小林一茶のエピソード

文献によると、小林一茶が妻の出産を案じて岩崎観音を参拝したという記録が残っています。小林一茶は、飯綱町より北の現在の信濃町柏原の人ですから、岩崎観音は現在の飯綱町の地域だけでなくその周辺の地域の人々からも知られた存在だったのではないでしょうか。

まとめ

というわけで、かつての岩崎観音は現在の飯綱町とその周りの地域の人々と共にあり、広く信仰されていた寺社の一つだったように思われます。

そのようなお寺がお寺仕舞いになるのは、時代の流れといえ、残念です。


脚注

  1. 元のお祭りは様々な理由で継続が難しくなっていたものの、近年は「牟礼駅前夏祭り」として開催されているようです。 ↩︎

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