飯綱町にゆかりのある和算家による算額、まだまだありました

算額

前回の記事で把握できていなかった算額がありました

前回の記事では和算の館の文献を調べることでわかった、飯綱町にゆかりのある5つの算額を紹介しました。ところが、私の検索範囲や技術的な問題により抜けがあり、飯綱町にゆかりのある算額は他にもあったことがわかりました。それが以下の表にある2つの算額です。

番号寺社名所在地年代
1久保寺観音堂長野市1781(安永10)
2大徳寺中野市1838(天保9)

前回同様、それぞれの算額の概略をご紹介したいと思います。

今回も「飯綱町の和算家」と書いた場合には「江戸時代に、現在飯綱町である地域で活動していた和算家」のことを指します。

結果、飯綱町にゆかりのある算額の数は… 「7」

前回の記事の段階で飯綱町にゆかりのある算額が既に5つわかっていました。今回2つが追加で、結果として計7つの算額が存在したことになります。7つの算額って、多くないですか? これは予想外でした。
前回の算額のリストに今回のものを加えると以下のようになります:

番号寺社名所在地年代
1久保寺観音堂長野市1781(安永10)
2岩崎観音飯綱町1818(文化15)
3大徳寺中野市1838(天保9)
4静間観音堂飯山市1848(弘化5)
5渋薬師堂山ノ内町1849(嘉永2)
6渋医王殿山ノ内町1865(慶応元)
7牟礼神社飯綱町1898(明治31)
飯綱町にゆかりのある算額の分布

それでは以下、今回追加した「久保寺観音堂」の算額と「大徳寺」の算額の紹介です。

久保寺観音堂の算額 (1781(安永10)年) 長野市 現存

概要

おそらくこれが飯綱町に関係する算額で最古の算額。前回「岩崎観音」の算額が一番古いと書きましたが、それより古いことが判明。

  • 宮城流である(今までに紹介したものはすべて関流)
  • 算額は現存(ただし長年風雨にさらされて算額の内容の判読が難しい模様)
  • 所在地:長野県長野市安茂里。お寺は現在正覚院(窪寺)として知られる
  • 算額の写真:和算の館のページ

出題者は
師匠:久保寺村 山田荊石勝吉
門人(飯綱町関係のみ):小玉村 黒柳利兵衛意信、小玉村 黒柳與総兵衛康照、小玉村 黒柳仙□好信、
小玉村 川口□藏政秀、野村上村 井澤清口郎□□、牟禮村 小川喜藤太昌數、牟禮村
高野武助秀満、黒川村 近藤□左衛門満行

注1:算額の劣化により門人の住所および名前の一部の文字が判読不能で、そういう文字は「□」になっています。特に住所の部分が全く判読できない門人名もあり、その場合飯綱町の地域の人である可能性もありますが、今回は除外しました。
注2:この算額では門人が列挙されているだけで誰がどの問題を担当したかは明示的には書かれていないようです。

非常に古い算額

今までにこのブログで紹介した算額はどれも1800年以降のものでした。この算額は1781年と、それらよりさらに古いものです。算額は現存(ただし劣化していて内容の判読に困難がある模様)し、長野県内に現存する算額の中でも二番目に古い1ものです。歴史があります。

最初に宮城流の和算が普及していた

和算には、日本の古典的な芸事や習い事と同様に「流派」というものがありました2。

飯綱町のある長野県上水内郡の地域では関流3の竹内度道(たけのうちただみち)という有力な和算家がおり、多くの門人の世話をしていました。このブログで今までに紹介した、飯綱町ゆかりの和算家も基本的にはすべて竹内度道の門人(弟子)でした。
一方、こちらの算額は宮城流4の有力な算術家であった山田荊石(やまだけいせき、1715-1786)とその門人によるものです。山田荊石は現在の長野市安茂里の地域で活動していました。時代も竹内度道の活動期より少し前です(竹内度道の生涯は1780-1840)。

この算額により、竹内度道以前の時代から飯綱町の地域に和算家の門人となった人々がおり、和算を学ぶ下地があったことがわかりました。今回認識を新たにした次第です。

大徳寺の算額 (1838(天保9)年) 中野市 現存

概要

出題者は
師匠:武内坦度道(この算額では名字が竹内でなく武内の表記)
第一術:水内郡芋川村 草間權左衛門慰元
第二術:同郡同村 宮嶋與五右衛門安臧

竹内度道の門人による算額

この算額は、前回の記事で紹介した算額同様、竹内(この算額では「武内」の表記)度道を師匠とするその門人等によって出題されています。やはりこの地域の和算において竹内度道の影響は大きかったようです。

中野市の寺に奉納された算額

前回の記事で、飯綱町の算額家は飯綱町外の寺社(具体的には飯山市と山ノ内町の寺社)にも算額を奉納していたことがわかりましたが、今回さらに中野市のお寺に算額を奉納していたことがわかりました。

どうなんでしょう、このように広範囲に算額が奉納されているというのは。今と比べたら交通機関も情報網も貧弱で、人々がはるかに狭い地域のみを意識して暮らしていた時代ですから、今とはまったく地理感覚が違ったと思いますが。あと和算家の地域的な知名度みたいなものはどうだったのでしょうね。
いずれにせよ、和算家としては、より広い地域・多くの人に自分たちの数学を見てほしい、といったことがあったのでしょうか?

長野県外でも算額を奉納した?

この算額に名前のある草間權左衛門慰元は、後年名前を木曽權左衛門慰元と変えて長野県外(江戸時代なので信濃国の外)でも活動していたようです。
なるほど、今まで長野県内の算額に絞って調査をしていて、長野県外での算額は調べていませんでした。今後そのような算額のことも調べて別の記事でご紹介できればと思います。

これら算額の時代感

紹介した算額は1700年代後半から1800年代前半のものであります。これは江戸時代なわけですが、たとえば「東海道中膝栗毛」の十返舎一九の生涯が1765-1831で、だいたい同じぐらいですね。伊勢詣が流行り、このような本が売れていた、そんな時代ですか。葛飾北斎(1760-1849)の「富嶽三十六景」もこの時代ですか。いわゆる「化政文化」という、文化文政の時代ですね。あと、小林一茶の生涯が1763-1828なので、こちらも同じぐらいの時代ですね。
このような時代に善光寺平の脇、現在飯綱町の地域にも数学を勤しんでいた人々がいたわけですね。なんだかこう、少しだけ歴史に実感が湧くような感じであります。

まとめ

こうやって算額のことを調べるまでは、これほどの数の算額が飯綱町にゆかりのある和算家によって奉納されているとは想像もしませんでした。

今回は算額に載っていた和算家の名前にのみ注目しましたが、それは和算を志した人々のごく一部でしょう。和算の師匠と和算の力量が高かった門人に限られているはずです。
一方、算額に名前が載るような方々以外にも和算を志した人が沢山いたことは、和算家の門人帳や和算家の顕彰碑などに記されている門人の名前などからもわかっています(機会があればまたそのあたりも記事にしたいと思います)。

江戸時代の後期、飯綱町の地域では和算が、数学に興味のある者の間では、なんといいましょうか、「普通」に学ばれていたということでしょうか。そして、和算を志した人々は地元の寺子屋などで一般の子弟の教育などもしたそうで、飯綱町の地域でも同様のことが行われていただろうと思います。
江戸時代の頃の飯綱町の地域での教育や文化の下地が感じられて、非常に興味深いです。


  1. 「算額の館」の表を参照 ↩︎
  2. といっても流派ごとに異なる数学を修めていたというより、単に異なる団体になっていただけのようですが。有名な関孝和による和算の発展(研究分野や数学の表記法等)が最も大きく、基本的にはどの流派も関孝和の業績を受け継いでいたようです。 ↩︎
  3. 関流(せきりゅう);和算そのものの開祖ともいえる関孝和を祖とする和算の流派。 ↩︎
  4. 宮城流(みやぎりゅう):京都を拠点としていた和算家の宮城清行(みやぎせいこう)を祖とする流派。関西を中心に広まり、その後信州にも伝わった。 ↩︎

コメント

  1. 仁兵衛 より:

    武内度道とその墓に列記されている各門人プロフィールについては、山浦直人・小山丈夫共著「近世村絵図の地図性について-絵師、計人の存在と絵図描写の特徴」(『市誌研究ながの』第31号2024年3月)が人名判読が正確で内容も詳しです。ご参考までに。

    • iizunamaru より:

      ありがとうございます。だいぶ新しい文献があるのですね。参考にしてみたいと思います。

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