飯綱町ゆかりの算額は牟礼神社以外にも存在した:和算家たちの活躍、算額ごとのストーリー

算額

「和算の館」のサイトで飯綱町関連の算額に関してより広く調べました

以前の記事で紹介しましたが、「和算の館」というウェブサイトには、日本中の算額に関する情報がまとまっています。これは大変貴重なサイトです。
実際のところ、このブログ中の算額に関する記事は、「和算の館」のサイトの文献に多く依存しています。場合によってはほぼ単なる引用に過ぎない箇所もありますが、ブログの記事にする際には内容の理解・解説・紹介に自分の視点を加えることを努めたつもりです。

すでにこのブログで紹介したように飯綱町の牟礼神社には算額が現存します。今回、飯綱町に関係する算額をさらに探すべく、このサイトで情報をさらってみました。
その結果、以下のようなことがわかりました:

  • 飯綱町には、牟礼神社の算額だけでなく、それ以外にも算額が存在した
  • 飯綱町の地域出身の和算家による算額が他の地域にも存在した

今回はこのようにして新たに私が認識した飯綱町関連の算額の紹介をしたいと思います。

算額自体は失われても記録が残っている場合がある

一般に、算額は奉納された寺社が火災に遭い共に消失する場合が少なくありません。現代に比べたら消防の手段・技術が乏しく、火災による消失は今より多かったでしょう。かつ元の寺社が再建されても算額は復元されていない場合も多いです。
ところが、実際の算額は失われたが、問題の写しなどが別途残っている場合が少なからずあります。実際、現在牟礼神社に奉納されている算額にも、もともと別の寺社で火災に遭い消失していた算額を、算額の下書きを元に再現した、という経緯がありました(詳しくは私のこの記事を)。

今回はそのようにして残された記録により、かつて存在したが今は失われている算額に関しても調べることができました。

飯綱町にゆかりのある和算家による算額のリスト(非現存も含む)

それでは今回調べた飯綱町にゆかりのある算額のリストを紹介します。
以下のように、現存・非現存の算額両方を含めると既知の牟礼神社以外に4つ(計5つ)の算額があることがわかりました。

寺社所在地年代現存?補足(別途説明)
1岩崎観音飯綱町1818(文化15)いいえ最も古い
2静間観音堂飯山市1848(弘化5)復元済平成28年に復元
3渋薬師堂山ノ内町1849(嘉永2)複製?岩崎観音の問題の修正
4渋医王殿山ノ内町1865(慶応元)いいえ牟礼神社の算額の元になった
5牟礼神社飯綱町1898(明治31)はいこのブログで紹介済み

寺社名にあるリンクでこの記事の後半にあるそれぞれの算額の説明に飛ぶことができます。

いやはや、思ったより数があります。そして算額の所在は飯綱町から離れた飯山市や山ノ内町の方にまで及んでいます。飯綱町の地域の和算家は当時盛んに活動していたことが伺われます。
それと同時に、現在まで火災に遭わずに残っているのは5番目の牟礼神社の算額のみです。寺社の火災の罹災率が低くなかったことがうかがわれます。ちなみに善光寺なども、歴史はとても長いですが何度か火災に遭っていて現在の建物は1707(宝永4)年の再建ですか(それでもかなり古いですが)。

算額が奉納されている寺社の分布は以下のような感じです。長野県の北部に分布しています。

飯綱町ゆかりの算額の分布図

この記事で触れる内容

これら一つ一つの算額に関して「算額の館」から辿れる文献にあった情報を取り上げて解説してみたいと思います。なおその際

  • 今回の記事では歴代の算額およびそこに載せられた問題を把握するするだけにとどめて問題の詳細には触れません。算額にある和算の問題は、算額上での順番にしたがって問題1、問題2、… とし、それぞれの出題者の名前を記載します。
  • 算額での名前の記載の形式として、まずは師匠の名前があり(「代表者」という感じでしょうか)、次にその師匠の門人が出題者として列挙されるようなので、ここでもその形式で書きます。
  • 和算家の出身地はそのまま記載します。ほぼ現在の大字(「飯綱町」ないし「長野市豊野町」以下の地名)に相当するので、現在の地名と結び付けられると思います。
  • 和算家が活動していた頃にはまだ飯綱町はなかったわけですが、「現在飯綱町である地域で活動していた和算家」のことを単に「飯綱町の和算家」と呼ぶことにします。他の地域の和算家も同様です。

(1) 岩崎観音の算額

概略

飯綱町関連で最も古い算額(ただし非現存)

  • 1818(文化15)年奉納。今回の中では一番古い算額である。
  • 算額はお堂の火災で共に消失し現存しないが、算額の写しが残っている。お堂のみ再建。
  • 所在地:飯綱町倉井

師匠:大倉村 竹内善五郎度道

問題と出題者:

問題1大倉村 小山又兵衛哿綏1
問題2芋川村 外山與五兵衛璠良2
問題3大倉村 原須助蘭秀
問題4芋川村 長崎八右衛門俾樂
問題5大倉村 原文次郎抽敘

飯綱町地域で非現存を含めて最古の算額か:竹内度道の活躍と同時代の算額

この算額は1818(文化15)年奉納と、今回紹介する算額の中では最も古いです。

出題者はいずれも竹内度道の門人です。竹内度道(竹内善五郎度道:たけのうちぜんごろうただみち、字(あざな)が善五郎、雅号が度道)は当時長野県北部のこのあたりの地域(信濃国水内郡)では高名な算術家だったようです。それを反映して、門人が800人以上いたそうです。そのような算術家とその門人らが活発に算術を研究していた頃の算額ということになります。

竹内度道は1780-1840という生涯だったので、師匠が38歳のときにその門人が問題を出し合って作った算額ということになります。

岩崎観音

算額が収められたのは飯綱町の岩崎観音です。このブログの岩崎観音の記事で触れたように、今では寺仕舞いをされてしまったようですが、この算額の奉納からするに、岩崎観音は当時この地域での主要な寺社の一つと見なされていたのだと思います。
岩崎観音には広く越後(新潟)からも石仏の寄進があったといいますし、上で触れた竹内度道も門人の範囲は越後にも及んだそうです。岩崎観音を含めこの地域での人の交流が盛んであったことがうかがわれます。

竹内善五郎度道の高弟であった外山與五兵衛璠良

文献によると第2問出題者の外山與五兵衛璠良は竹内度道の門人の中でも高弟(優秀な弟子)だったそうです。また、ご子孫宅に「大方儀」と呼ばれるかつての地図の測量に使われた道具が残されている3とあります。当時の和算家は地図の作成などにも携わる場合がありました。

(2) 静間観音堂の算額

概略

飯山市と飯綱町の和算家の交流が見られる算額。

  • 1848(弘化5)年奉納。静間観音堂は飯山市にある。
  • 算額はお堂の火災で共に消失したが算額の写しが残っていた。それをもとに近年算額が復元された。
  • 所在地:飯山市静間大久保

師匠:小玉村 川口源治郎義訓4
問題と出題者:

問題1靜間村 大久保兼吉信重
問題2野村上村 土屋佐藤太滿昌(大久保信重門人)
問題3芋川村 村上七藏忠知(大久保信重門人)

飯山市にある算額、飯綱町の和算家による出題

算額が奉納されているのは飯山市ですが、飯綱町と密接な関係があるようです。
まず、師匠の川口源治郎義訓が小玉(現在飯綱町小玉)の人であります。
1問目の出題者「大久保兼吉信重」の名前は、以前牟礼神社の算額の経緯を紹介した記事で出てきました。この算額が作られた時点では飯山の靜間村(現在の飯山市静間)にお住まいだったようですね。
飯山市と飯綱町の二つの地区に関して和算に関する交流があったということですね。

近年この算額が復元された

算額は消失していましたが、「奉掲渋薬師堂静間観音堂算法二事」という文献に写しが残っていました(その名前からするとこの次に紹介する渋薬師堂の算額のことも載っていそうです)。
SBC信越放送のウェブページのこのリンクにあるドキュメントによると、平成28年に飯山の高校生が長年失われていたこの算額を復元して奉納したそうです。すごいですね。このページに算額の写真があります。

余談:島崎藤村の「破戒」との関係

静間観音堂は「静観庵」ともいいますが、島崎藤村の「破戒」にも静観庵が出てきます。破戒は飯山地方を題材にしているとされ、破戒に出てくる静観庵はこのお堂のことのようです。ただし、破戒は飯山地方の寺社や関連人物をモデルにしたものの、小説の話としては創作部分が多く、モデルにされた方々は困惑されたとか。猪瀬直樹の「ふるさとを創った男 唱歌誕生」にも関連した話が出ていたように思います。例によって余談でした。

(3) 渋薬師堂の算額

概略

渋温泉にある飯綱町の和算家による算額。過去の算額の問題の訂正を掲載する。

  • 1849(嘉永2)年奉納。その後このお堂の火災と共に算額も消失。
  • 平成7年に和算家の子孫宅で算額が発見された(後述)。
  • 所在地:山ノ内町渋(現在渋温泉にある渋薬師庵か5)。現在お堂のみ再建で算額はない。

師匠:小玉村 川口源次郎源義訓6

問題と出題者:

問題1静間村 大久保兼吉信重岩崎観音 問題1と同じ
問題2牟礼宿 吉田喜八信喜(大久保信重門人)

山ノ内町の渋温泉にあった算額です。出題者として静間観音堂の算額と同じ、川口源治郎義訓と大久保兼吉信重の師弟となっています。
渋温泉は今も昔も温泉客が訪れてお堂巡りなどをする場所ですから、そのような人達に算額を見せるような目的もあったのでしょうか?

岩崎観音の算額の第1問の「修正」が掲載されている

実はこの算額の問題1は岩崎観音の問題1(出題者 小山又兵衛哿綏)と同じです。でもこちらは出題者が大久保兼吉信重になっています。
何があったか:大久保兼吉信重は岩崎観音の問題1の答えが「迂遠」(間違いではないが、簡潔な形になっていない)であることに気づき、それを直した解答を付けてこちらの算額に同じ問題を掲載した、ということのようです。
算額は、一旦奉納したらそれで終わりでなく、他の算術家からの「レビュー」があったりするのですね。
一点だけ気になったのですが、問題の作成自体は小山又兵衛哿綏なのに、簡潔な解を示した(だけの)大久保兼吉信重が出題者も名乗るというのは、そういうものなのですかね。
いや、数学の問題って一般に解くのもそうですが作るのも容易ではないので、作成者の名前のクレジットも保持しなくていいのかなと、少し思いました。

ご子孫宅で算額が発見された

元の算額はかつて渋薬師堂が火災にあった時に失われてしまいました。
しかしながら、平成7年になって同じ算額が大久保兼吉信重のご子孫宅で発見されました。ただ、それが渋薬師堂に奉納されていた算額の現物なのか、複製(予備)の算額なのかはわかっていないそうです。

(4) 渋医王殿の算額

概略

渋温泉にある飯綱町の和算家による算額、師匠の竹内度道の遺志を受け継ぐために奉納。

  • 1865(慶応元)年奉納。その後火災で失われた(算額の写しは残っていた)。
  • 渋医王殿は山ノ内町にある。一方算額の出題者等の住所は現在の飯綱町と長野市豊野町である。
  • 所在地:山ノ内町渋(現在渋温泉にある横湯薬師か7)。現在お堂のみ再建で算額はない。

普光寺 中島佐五右衛門利則 識
問題と出題者:

問題1神代驛 屈作右衛門道謙
問題2芋川村 外山平左衛門信詮
問題3牟禮驛 吉川孝吉靄蓮8
問題4靜間村 大久保兼吉信重渋薬師堂 問題1と同じ
問題5倉井村 原定彌知秀

渋薬師堂の算額と同じく、山ノ内町の渋温泉にあった算額ですが飯綱町と長野市豊野町の和算家による出題になっています。

算額の序文

算額の序文には以下のようなことが書かれています(概略):

  • 大久保兼吉信重の算術にはかつて誤りがあった。その後彼の学問も発展し、過去の誤りを認めつつ、新たに問題を算額に発表し、高潔な態度を示したい。
  • 同時に同じ門下の仲間と問題を出し合って一つの算額とすることで、故城山先生(=竹内度道)のご遺志を世に広めると同時に、有力な門人達の存在も示す。

大久保兼吉信重による出題の経緯

渋薬師堂の算額の項目で述べたように、大久保兼吉信重はこれまでに別の算術家の誤り(岩崎観音の第1問)を指摘しています。ところでこの序文からすると、ご自身の出題の中にも誤りがあったということでしょうか?
なお、大久保兼吉信重がこの算額で出題している問題を見ると、上で紹介した渋薬師堂の算額の第1問と同じに見えます(注:今回全く算額の問題の内容に触れていませんが、個人的に目は通しました)。あれ、序文によると新しい問題ないし解を載せるという意味ではないのかな?
彼の問題に関して、解答の部分を渋薬師堂の算額と渋医王殿の算額で比較すると微妙に「言葉遣い」が違いますが、もしかしてこのことですか?

城山先生

「城山先生」とは師匠の竹内度道のことです。先生のことをその方の住所で呼ぶ習慣です(でした)。実際、竹内度道は現在の長野市豊野町大倉城山に住んでいました。なお、この算額が奉納された時点ではすでに鬼籍に入られています。この算額は城山先生の門人達が師を偲んで作られたと言う意味もあるようです。

牟礼神社の算額の元になった算額

以前の記事で紹介しましたが、牟礼神社にある算額の目的の一つは火災によって失われたこの算額を復元することにありました。
その記事を書いている時点でこちらの算額のことをよく知りませんでしたが、今回、確かに算額の問題が牟礼神社の算額と対応していることがわかりました(問題の中身をここで紹介してはいませんが)。

(5) 牟礼神社の算額

概略

火災により消失したかつての和算の成果を取り戻すために奉納。

  • 1898(明治31)年に作成・奉納。
  • 今回4番目に紹介した渋医王殿の算額(消失)を復元する目的で作られた。
  • 牟礼神社は飯綱町牟礼にある神社。

問題と出題者:

問題1神代駅 屈作右衛門道謙渋医王殿 問題1と同じ
問題2牟礼駅 大久保兼吉信重渋医王殿 問題4と同じ
問題3倉井村 原定弥知秀渋医王殿 問題5と同じ

復元された算額なので、問題はどれも復元元の算額と同じになります。

以前の記事で紹介、火災で消失した算額の再建

このブログで算額に注目するきっかけになった、牟礼神社の算額です。その経緯などをすでにこの記事この記事で紹介しているので、そちらを参考いただければと思います。それは、かつて存在したが火災で消失してしまった算額を再建するものでした。

問題のリストが元の渋医王殿の算額と少し異なる

消失した渋医王殿の算額を復元した算額ということで、基本的には同じ問題が載っているのですが、渋医王殿の第2問と第3問は牟礼神社の算額にはありません。どのような理由なのでしょうね。

同じ問題?
ちなみにこの算額にある大久保兼吉信重の問題は、元になっている渋医王殿の算額の時点ですでに同じ問題の2回目の出題でした。それが牟礼神社の算額によって復元されたことにより、同じ問題の3度目の登場となっています。
さらにいうと、大久保兼吉信重の1回目の渋薬師堂の算額での出題は元々岩崎観音の算額にある1題目の小山又兵衛哿綏の解答を訂正したものなので問題としては同じです(解答のみ異なる)。というわけで計4回の登場になるという… これは珍しいかもしれません。
問題の訂正や消失した算額の復元などの経緯が重なったせいでそうなったようです。

岩崎観音第1題(小山又兵衛哿綏(初出題))→ 渋薬師堂第1題(大久保兼吉信重(小山解訂正))→ 渋医王殿第4題(大久保兼吉信重(訂正?))→ 牟礼神社第2題(大久保兼吉信重(復元))

和算家と名跡?

ここまで、大久保兼吉信重の名前が度々登場しました。そのことからして、この方は算額に精力的に取り組まれ、多大に貢献されたことは間違いないと思います。

ところで、他の文献によるとこの「大久保兼吉信重」の名前は大久保家で代々引き継がれていたようですね。いわゆる名跡のような感じですかね?
とすると、今回紹介した算額のどれかの時点で次世代の大久保兼吉信重に継がれている可能性がありますね。実際、2番目の静間観音堂が1848年、5番目の牟礼神社が1898年、ということで50年の開きがあり、当時の平均寿命なども考えると、複数世代の「大久保兼吉信重」が携わっていた可能性はありそうです。

まとめ

飯綱町の地域で活動していた、和算家の人数と彼らによる算額がこれほどの規模とは想像していませんでした。この地域で多くの和算家が精力的に活動し、成果をいくつもの算額として奉納したのですね。

算額一つ一つに、その算額が奉納された経緯、大袈裟にいえばドラマやストーリーがあることが見てとれ、非常に興味深いです。ある算額は問題の訂正のため、ある算額は亡くなった師匠を偲んで、ある算額は火災による消失を復元するため、といった感じで、一つ一つの算額に特別の思いがあったことでしょう。

あと、今回紹介した算額はどれも写しがしっかりと残っていて、問題の詳細まで確認できるものばかり9です。実は貴重なケースのみを取り上げているのかもしれません。それでもこれほどの数の算額のことがわかるのはすごいと思いました。
今後、別の方面からもこの地域の和算家のことがわかるといいですが。(脚注で触れた「信濃の測量図」などはその一つの文献です)

補足:消失した算額の内容が今でもネットで確認できるのは

今回、算額が消失して現存しないものに関してもかなりの情報を「和算の館」のオンラインの情報で得ることができています。かつほとんどの算額の問題がデジタル起こしされ、さらに現代数学による解法も載っています。これはすごいことです。

ちなみにそのような、過去の算額のデータは以下のような経緯で蓄積されているようです:

  1. 算額が消失している場合も、和算家の自宅にかつて作った算額の問題の写しが残っていたり、他の和算家による算額を写したものが残っていたりした。
  2. そのような文献が和算家の子孫等により維持保存、あるいは日本学士院に寄贈されたりしている場合は、現在も閲覧できる。
  3. 和算の研究者達は、寺社などに現存する日本中の算額を詳細に調べた。また消失している算額に関しても上記のような文献をあたり、情報をまとめたり本として出版したりした。
  4. そのような成果が現在「和算の館」でオンライン公開されている。

このような経緯・作業に携われた方々の多大な努力が背後にあったことを今回再認識しました。


脚注

  1. 「算額の館」で公開されている「幻の算額」のPDFでは小山又兵衛綏とありましたが、別の文献(「三水第一小学校史」)を参照すると小山又兵衛哿綏(かすい)が正しいようです。おそらく、元の原稿を編集ソフトか何かで作ってからPDFにするまでの間の問題で文字がうまく出ていないのでしょう(標準的な漢字ではないので)。 ↩︎
  2. 同じく、算額のPDFでは外山與五兵衛良となっていましたが、他の文献で見ると外山與五兵衛璠良(ばんりょう)が正しいようです。
    ここ何十年かのコンピュータの文字コードの発展もあり、外字等を使わずにこれらの雅号を表示しているのはこのブログだけだったりして。 ↩︎
  3. 「信濃の測量図」小野和英著、「信濃」第50巻第11号 ↩︎
  4. 「信濃の測量図」にある、かつて小玉村の地図の作成に関わった人物の名前に小玉村の川口儀右衛門寿主がありますが、もしかして関係があるんでしょうか? ↩︎
  5. 「算額への招待」にあるお堂の写真が渋薬師庵に見えます。現地のお堂には額があり「醫王閣」と書かれているようです。 ↩︎
  6. 静間観音堂の算額に出てくる名前と微妙に漢字が違いますが、同一人物でしょう。 ↩︎
  7. 横湯薬師の現地の看板には「『医王殿』の別名がある」と書かれています。「医王」とは薬師如来のことだそうなので、「薬師堂」と「医王殿」はほとんど同じ意味のような? なお現地のお堂には「醫王殿」の額があります。 ↩︎
  8. この雅号もPDFの文書だと漢字が飛んでいる。 ↩︎
  9. ただし今回の記事の構成で問題の内容に関してはほぼ触れていませんが。 ↩︎

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