牟礼神社の算額に書かれた、和算以外の内容
今までのこのブログの記事では飯綱町の牟礼神社の算額にある三つの問題を、いわば純粋に数学の問題として調べてきました。
第一題の解説:第二題の解説:第三題の解説
私個人の興味として「和算という数学である以上、単に昔の文献として眺めるのではなく、可能ならば数学として理解したい」ということがあり、それにしたがった解説記事にしてみました。
しかしながら、もう一度算額の写真を見直してみますと

写真が鮮明とは言い難いのですが、
よく見てみると、和算の問題があるのは算額の右半分のみであります。そしてそれは今までの記事で問題の文字起こし、現代語訳、問題の解法の解説等を試みました。
一方、三題の和算の問題のあと、算額の左半分にはさらに沢山の文字の文章が寄せられていることがわかります。
「この部分は和算の問題には直接関係なさそう」ということでスルーしていたのですが、今はこの部分も気になっています。
というわけで、今回はこの部分をよく見てみたいと思います。
序文の文字起こし
幸い算額全体の文章を載せてある文献がありましたのでそれを引用させていただいて、和算の問題より後の部分の文字起こしを以下に示します:
(位置的に和算の問題の後ですが、「序文」とされているようです)
集昌惣文序曰文者貫通之器也不潔於斯道者至焉者不也或日三水村大字普光寺西組渋澤俳仙氏突然来謂予曰此小冊者予算学之師範大久保信重需士催主而為編製下高井郡渋温泉場所為奉納干薬王瑠璃殿縮図也矣其後彼殿字係回禄之災害而属烏有焉雖経歴若干余年之永未至再建目途也猶僥倖此下按大久保氏秘而在書庫焉霊為紙蝉之巣窟至朽果甚不本意遺憾之至也矣自起吹挙心存製額面而清記其術之問答令模写其繪図於吉田大祐氏其文章於己由道筈也乎己俄頃得病不能得書也故依頼山岸五洲其額成就也矣而欲為献納郷社牟礼神社之寶前者是欲使此術之芳名残永世不朽者所謂俳仙霧士懐老姿心而所以勤務今此算学之道也彼蘇子膽亭以雨名志喜也古者有喜則以名掲示不忘也殆是類似之者耶嘻呼凞氏憑哉
旹明治三十一年龍集戊戌
秋十月
九峰外史應園蹊此時年八十一
五洲書
私にはこの漢文は読み下せません。とりあえず長いですよね。ぱっと見いろんな名詞(人名や地名)が見えるので、頑張ってその周りで文を区切っていけばある程度は、という気もしないでもないですが、私にはそこまでのパワーがありません。
序文に出てくる地名からも時代がわかる
でも、上の漢文をぱっと見ると、一行目には「三水村大字普光寺」と、飯綱町になる前の世代の人間には見慣れた地名が古い漢文の中に埋め込まれている感じで、ちょっと面白い(?)です。
時代的には、明治22(1889)年、明治政府による町村制が施行されて三水村ができました。この算額は明治31年なのでそれから9年が経過した、そんな時代ですね。
それまでは「普光寺村」とか「芋川村」とか、現在大字になっている地名が村として存在していました。
ちなみに明治の町村制施行時に隣村も出来まして、「牟礼村」です… が、これは飯綱町が出来る直前の「牟礼村」とは違うのです(なのでこの古い方を「牟礼村(第1次)」、新しい方を「牟礼村(第2次)」と呼んだりもします)。
牟礼村(第1次)の方は出来た翌年の明治23(1890)年に中郷村に改称されました。そのだいぶ後の昭和30(1955)年に中郷村と高岡村が合併してできたのが飯綱町になる前の牟礼村でした(第2次)。最初の牟礼村はなんで改称されたんですかね。余談ですが。
AIによる翻訳の力を借ります
自力による解読はとりあえず今後の課題とし、Google Geminiの力を借りてこれの翻訳をさせてみると、なんと以下のようなわかりやすい現代文にしてくれました(多少手をを加えました)。内容が非常に真っ当なので、正しい現代語訳をしていると想定します。おそるべしです。
しかしAIというのは、ある意味、高機能なアプリケーションが何個も備わっているような、そんな感じもしますね。今後、今まで一つ一つ単体の機能で売っていたソフトウェアとかどうなるのでしょうか。
おっと余談がすぎました、現代語訳は以下の通りです:
集昌惣文 序
文というものは(道を)貫通させるための器である。この道に潔くない者が、高みへ至ることはない。
ある時、三水村大字普光寺西組の渋沢俳仙氏が突然やってきて、私にこう言った。
「この小冊子は、私の算学の師匠である大久保信重先生が、かつて下高井郡の渋温泉にある薬王瑠璃殿へ奉納するために編纂した縮図(下書き)です。しかしその後、あのお堂は火災(回禄の災)に見舞われ、跡形もなく消えてしまいました。それから何年も経ちますが、いまだ再建の目処は立っておりません。
幸いにもこの下書きは大久保氏が秘蔵して書庫にありましたが、このままでは紙を食べる虫の巣窟となり、朽ち果ててしまうでしょう。それは本意ではなく、遺憾の極みです。 そこで自ら発起人となり、額面を製作して算術の問答を清書し、絵図を吉田大祐氏に模写させ、文章は自分(俳仙)が書くつもりでした。ところが、私は急な病にかかり書くことができなくなってしまいました。そのため、山岸五洲氏に依頼して額を完成させたのです。これを郷社である牟礼神社に奉納し、この算術の名を永世に伝え、朽ちぬようにしたいと考えています」と。俳仙氏は老いた身でありながら、今なおこの算学の道に励んでいる。かつて蘇東坡(蘇子瞻)が、自らの亭に「雨」と名付けて喜びを記したように、古人は喜びがあれば名に掲げて忘れぬようにした。今回の件も、それに類することであろう。ああ、なんと素晴らしいことではないか。
明治三十一年 戊戌
秋十月
九峰外史 應園蹊 このとき八十一
五洲 書
なんと、このような事情がこの算額にはあったとは。
そして、現代語訳からすると、漢籍から引用された古事と思われる文などが含まれるようで、そのような教養のある方が文章を書かれたようですね。
序文からわかる、牟礼神社の算額の経緯
というわけで序文の現代語訳からこの牟礼神社の算額の経緯がわかりました。念のため、内容をまとめますと
- 元々は渋温泉の薬王瑠璃殿に算額が掲げられていたが、火事で消失し、この文章の時点でまだ算額が再建されてない。
- 算額の問題の下書きは残っているが、このまま日の目を見ずに散逸してしまうのは非常に残念である。
- そこで、役割分担をして、算額をふたたび作り、牟礼神社に奉納できることになった。
- 渋沢俳仙氏:発起人であったが、急に体調を崩されてしまった
- 大久保信重先生:焼失した算額の問題の撰者。問題の下書き(コピー)をお持ちだった
- 吉田大祐氏:算額の問題の図の模写をされた
- 山岸五洲氏:算額の文章を清書された
- 九峰外史 應園蹊氏:算額の序文の文章を書かれた
とのことで、算額を作ることのご苦労が偲ばれます。
算額完成の背後には、問題を作られた和算家の方ももちろんですが、現飯綱町の地域のさまざまな教養をお持ちの方の協力があった感じですね。感慨深いです。
あと、元々は渋温泉に算額があったというのも興味深いですね。渋温泉は飯綱町から東へ20kmぐらいのところの山ノ内町にある温泉地です。牟礼神社の算額の出題者はいずれも現飯綱町およびその周辺の地域の方ですが、あえて遠隔地に算額を奉納した感じです。
どうなんでしょう、やはり渋温泉には当時も温泉目的で人々が集まり、温泉ついでにお堂巡りなどもしたんでしょうか。そうしたらそういう場所に算額を掲げておけば人の目についてアピールできるとか、そんな事情もあったのかもしれません。
牟礼神社の算額が作られた年代への影響
元の記事で、牟礼神社の算額が作られたのは明治31年、すでに世の中が和算から洋算へ移行したような時期であった、と書きましたが、この文章に書かれたことがそれの理由(の一つ)になっていますかね。
すなわち、牟礼神社の算額は別の神社で火災で消失した算額を後年再建したものであるということで、その結果、時代的に後になったという面があるのでしょう。
元の、渋温泉にあったという算額がいつ頃のものなのかが気になりますが。
「それ(算額の消失)から何年も経っている」とあるので、この算額の再建はその火災による消失の直後ではないようです。
出題者のお名前
以前の牟礼神社の算額の記事では、算額の問題の出題者の方々のお名前を省略してしまいました。一般的に、算額では問題の後に出題者の住所と名前が書かれます。
上では算額を作るために協力された方々のお名前も書きましたし、あらためて、この算額の問題部分に書かれている出題者のお名前を書かせていただきますと
- 第一題:信濃国水内郡神代駅 屈作右衛門道謙 氏
- 第二題:同国同郡牟礼駅 大久保兼吉信重 氏
- 第三題:同国同郡倉井村 原定弥知秀 氏
です。序文で出てきた大久保信重先生は、第二題の出題者でもありました。
ところで出題者の住所ですが、古い地名(明治以前の地名)で書かれていますね。念のため書くと「駅」と付く名前は宿場町のことですね(と思います)。
一方、上で述べたように、算額の序文の中では「三水村大字普光寺」と、明治以降の地名で書いてありました。これは、この算額が作られたのが明治31年なので順当ですね。
渋温泉に奉納されたという、元の算額が作られたのは三水村が出来る前の時代だったでしょうね。これら出題者の住所はそのときに書かれたものなのでしょう。
牟礼神社の算額で問題を復元したとき、出題者の住所はそのままにしたのですね。
あとそういえば、上の序文中で出てきた算額の協力者の方々のお名前は、「苗字」+「雅号」になってますよね。一方、算額の出題者は「苗字」+「本名」+「雅号」です(ね?)。
出題者の方は江戸時代のものだとすると、当時は苗字の使用の制限があったという理解ですが、算術家に関しては許されていたということですかね? (という疑問を以前から持っているのですが)
算額に込められた思い
後世になって算額を見たとき、どうしても「どのぐらい古いものか」「どんな数学の問題が扱われているか」みたいな、比較的興味半分な注目をして終わってしまいます。
しかし、考えてみれば、算額の一つ一つの問題には、それを苦心して解いた和算家がいるわけで、その思いが算額に乗せられていると言っていいでしょう。
今回、算額の序文に関して内容を調べることで、認識を新たにした思いです。
算額のことを調べるにつれ、最初はただの歴史的文化財の一つという視点だったのが、もう少し血の通った、かつての和算家の努力や思いが感じられるようになってきた気がします。
江戸時代の教養を引き継いでいた方々と和算の算額
今回、算額の序文に登場された方は皆雅号を持ち、何らかの知識人であったと思われます。今回の中では大久保信重先生の名前が唯一算額の問題の撰者としても出てきます。そのほかの方々も、おそらく和算に限らず何らかの分野に通じた方で、かつこれらの人々の間にネットワークがあったわけですね。
これらの方々は、江戸末期から明治以降を生きられた方々で、江戸時代にこの地域で培われていた教養・文化を身につけていた最後の世代であり、その結晶のようなものがこの和算の算額である、と言ったら大袈裟でしょうか。
江戸から明治にかけて、飯綱町の地域の人々はどんな感じだったのかなあ、と素朴に考えるとき、大半の人は農家で、宿場町の地域では商売を営む人がいただろうな、ぐらいの貧弱なイメージしかなかったのですが、中にはこのような教養人の方々もいらしたわけですね。
彼らも本職としては農家なり商人だったのかもしれませんが、さまざまな教養を嗜む人たちがこの地域にもいたのだな、と非常に興味深いです。
本当は漢文の部分をもっと深く理解できれば
すでに述べましたが、この算額の序文の現代語訳を読むに、単に算額の由来の事実を述べただけでなく、教養のある方が書かれた、漢籍で引用されるであろうような古事などが盛り込まれた、風流な文章のように見えます。(ちなみに、AIの現代語訳にはそのような説明も補足されていて、すごいというかなんというか)
しかし逆にそれが読解を難しくするというか… 上の漢文の冒頭部には例えば「集昌惣文」「文者貫通之器也」といった語句が出てきますが、前知識がないとここで意味不明になってつまずきそうです(私は、AIに現代語訳をさせてからあらためてそれらの語句を調べ、なるほど、となりました)。
結局、浅学の私などは現代語訳から、もとの漢文の雰囲気を想像するのみであります。漢文の部分をもっと掘り下げることができればいいのですが。



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