長野県外での算額の奉納?
前回の記事では飯綱町ゆかりの和算家達が、飯綱町以外の地域にある寺社にも算額を奉納していた、ということを紹介しました。江戸時代で人の交流範囲もだいぶ限られていたと思いますが、算額を奉納する場所は算額家が住んでいた地域に限らなかったようです。
とは言っても紹介した算額の所在地は長野県の北部、いわゆる北信地域に限られていました。すると、「さらに遠方、さらには長野県外に算額を奉納した例などはあるのかな?」という疑問が湧きました。
例によって「和算の館」やその他の文献を調べた結果、その答えは… YESであることが分かりました。そのような算額が2枚知られています。それらを以下で紹介します。
前回の記事の時点で飯綱町ゆかりの和算家による算額の数は7枚でしたから、今回のものを合わせると合計9枚となります。当初の予想以上の数です。
1. 東京 浅草池田侯邸内伽山 (1841年) 非現存
概要
- 天保12(1841)年奉納
- 所在地:東京都台東区浅草
師匠:武内坦度道(名字は「竹内」表記のこともある)
問題と出題者:
| 問題 | 出身 氏名 |
|---|---|
| 1 | 房州朝夷郡海發村 石井藤兵衛忠重 |
| 2 | 信州水内郡善光寺平芋川村 木曽権左工門尉元 |
木曽権左工門尉元とは
上の表の2番目の方、木曽権左工門尉元が「芋川村」ということで現在の飯綱町芋川出身であります。郡と村の間に本来は不要な「善光寺平」と入っているのは、江戸にある算額なので全国的に知られた地名を補った、みたいな感じでしょうか?
前回の記事で長野県中野市の大徳寺に奉納されている算額の出題者で「草間權左衛門慰元」という名前がありましたが、この方と同一人物だそうです(確かに名字以外は同じ)。
前回の算額と合わせると、もともと武内(竹内)度道(このブログで何度か紹介、当時の北信地方での有力な和算家)の門人として算術を学んだ後、江戸に出て名字の名乗りを「木曽」に変え、算術を続けたようです。
どのような経緯で江戸に出たのでしょうね。そしてどのような人のつながりを得てこの算額を奉納することになったのでしょうか。
この算額には「武内度道門人」とあり、江戸での師弟関係等ではなく元の信州での師が記載されています。恩師への尊重でしょうか(あるいは単に和算の流派を示す形式的な意味だったかもしれませんが)。
この算額が奉納された1841年というのは武内度道が亡くなった年(1840 )の翌年ですね。それも関係があるかもしれません。


「額題輯録」より(算額の写し、算額自体は非現存)
もう一人の出題者の石井藤兵衛忠重という人も気になりますね。千葉県(房州)の人ということで、武内坦度道および木曽権左工門尉元とはどういう縁だったのでしょうか。
浅草池田侯邸内伽山とはどこの場所?
この算額の所在地ですが、名称以外の事はわかっていないようです。名称からして、当時の浅草に池田という方の屋敷があり、その敷地内に社などの算額を飾るに相応しい場所があったのでしょうか。
江戸時代の地図で浅草の周辺を調べたところ「池田内匠頭」(いけだたくみのかみ)の名前の敷地がありました。どうやら備前岡山藩主であった池田家の江戸藩邸だったようで、「浅草池田侯邸」はおそらくこの屋敷のことではないかと個人的に推測しています。

では名前の後半部の「伽山」とは? 地図の「池田内匠頭」の敷地をよく見ると「エウカ山」(ゆうかさん)という鳥居の印があります。もしかしてこれのことでしょうか? (この画像ではわかりにくい場合、この記事の冒頭の画像、あるいはこのリンクサイトの地図等で確認できます。)
鳥居の印からして神社に類するものだったでしょうから、算額があっても不思議ではありません。
ちなみに備前岡山藩池田侯ゆかりの倉敷に名前がよく似た「由加山(ゆがさん)」(瑜伽山)という神社がありますが、関係があったりするでしょうか1?
ただ、もしこれが正しいとするとなおさら、武内坦度道および木曽権左工門尉元がどのような縁でこのような場所に算額を奉納したのかが気になりますが、よくわかっていないようです。
余談ですが…
池田内匠頭の屋敷の近くに「頒暦所御用屋敷」という敷地があります。これは江戸時代の天文台で、浅草天文台ともいいました。暦の計算に必要な天体観測を行っていました。
ここにはあの伊能忠敬の測量術の師匠であった高橋至時が勤めていました。また、この天文台は葛飾北斎の富嶽百景の中の「鳥越の不二」という絵(天文台が鳥越町にあった)にも描かれています。


算額の場所がこの池田侯邸で正しいという前提で、もしかして木曽権左工門尉元は伊能忠敬との接近遭遇もあった? と一瞬思いましたが、伊能忠敬の生涯は1745–1818年、一方この算額が1841年なのでちょっと厳しいですね。
はい、算額・和算の話とある程度は関係がありましたが、例によって余談でありました。
2. 栃木 神明宮 (1877年) 現存
概要
- 明治10(1877)年(※ 算額では紀元2537年と皇紀で記されている)
- 所在地:栃木県栃木市旭町
- 群馬県和算研究会のページにある算額の写真、「栃木の神社」のページにある算額の写真
- 文献に「田村與兵衛は,牟礼村田村貞三氏の先祖」とある
師匠:信濃国水内郡牟禮駅出 下野国都賀郡大領邑寓 田村與兵衛源正知
問題と出題者:算額の文献によると三百余名の門人とある
明治に入ってからの算額
和算とその算額が最も盛んだったのは江戸時代後期で、明治維新以降は西洋数学の導入により廃れていきました。したがってこの明治10年の算額というのは「新しい」部類に入ります。算額の写真を見ると、文字が単なる筆書きでなく彫り込まれており、もしかすると算額を作る技術にも新しさが反映されているとか?

田村與兵衛源正知とその門人
算額によると田村與兵衛源正知は信濃国水内郡牟禮駅出、ということで現在の飯綱町牟礼出身です。「門人」とありますから、田村與兵衛源正知はこの算額において和算の師匠としての立場で、門人らが算額を作成したことになります。そして門人はどうやら沢山いたようです。算額の文献には門人三百余名とあり、また上記算額の写真にはどうやら門人の名前がびっしりと書き込れているようです。
栃木に移られて大勢の地元の人々に和算を教えていた感じでしょうか?
それと算額の印象として、田村與兵衛源正知の名前が大きく書かれていて、この方を顕彰している感じもします。素晴らしいですね。
個人的な感想
どちらも遠隔地での算額の奉納ということでその経緯が興味深いですが、算額あるいは算額の写しが残っている以上の情報はあまりない感じです。
全く無縁の地に算額だけが奉納されたりはしないでしょうから、少なくとも算額のある地の和算家ないしその寺社の関係者とは縁があり、おそらくご本人もその地に出向いたり、あるいは移住していたでしょうか。
いうまでもなく、遠隔地への移動も移住も容易ではない時代であり、その上さらに算額を残すというのは並々ならぬものがあったと思います。それを実現した和算への熱意が感じられます。一方で、日々の生活の糧に直接はなりにくかったであろう和算(算術)に力をいれる、風流の心みたいなものを強く持たれていたのかなと思います。


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